多摩地方(北西部)・入間地方(狭山市域)の武蔵野台地には、広い土地をすり鉢状に掘り抜いた井戸が残されています。なんでも、「竪堀り井戸を掘る技術が確立される近世までは、漏斗状に地下水まで掘り下げた(埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会掲示より)」のだそうで、少なくとも関東の平野部では見かけません。
平安時代の貴人にも奇異に映ったようで、清少納言の枕草子に「井は堀かねの井」と記載され、その後は
- 千戴集「武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにけり」藤原俊成(1114-1204)
- 俊頼集「あさからす思へはこそほのめかせ 堀金の井のつつましき身を」源俊頼(1055-1129)
- 山家集「くみてしる人もありなん自づから 堀兼の井のそこのこころを」西行法師(1118-1190)
- 拾玉集「いまやわれ浅き心をわすれみす いつ堀兼の井筒なるらん」慈円(1155-1225)
と詠まれているそうです。
堀かねの井とは、狭山市北入曽の小名「堀難井」(ほりかねい)によると、掘り難い(ほりがたい)井戸ということらしく、飲料水を得ることが困難な地域にこうした形状の井戸が存在するようです。
江戸時代の地誌・新編武蔵風土記稿にも記載されており、上記歌人に詠まれた「堀兼の井」はどれか断定できないものの、こうしたすり鉢状の井戸は、
と少なくとも4井戸が記載されています。
また、新編武蔵風土記稿には記載されていないものの、青梅市新町にも新町の大井戸があります。
少し驚きだったのは、練馬区の小学校で育った知人は、小学校の遠足でまいまいず井戸へ行ったことがあるのだとか。品川区の小学校で育った筆者はこのような井戸を見に遠足に行った記憶はありませんし、まいまいず井戸へ行くまでこうした形状の井戸存在自体を知らなかったので、生まれ育った地域により、義務教育の内容にも差があるものだと感心しました。