居眠り磐音江戸草紙(08)朔風ノ岸

第一章府内新春模様P7
金龍山浅草寺P7
大晦日の夜、多くの舟が行き交う大川端には、御米蔵が黒い影を見せて広がり、さらにその向こうに金龍山浅草寺が望めた。

富岡八幡宮P24
二人は富岡八幡宮に初詣でに行くのだという。

第二章三崎町初稽古P78
なし

第三章早春下田街道P146
三島大明神P146
江戸を出立して四日目の朝まだき、寄合旗本大久保宇左衛門の御用人馬場儀一郎の一行は三島大明神に参詣した。

三島大明神P148
東海道と下田街道が交わる三島にある三島大明神は、奈良時代の中頃に創建されたと推定される古社である。
祭神は大山祇命、事代主神の二神で、三島神は伊豆諸島の活発な火山運動を鎮撫するものとして信仰されてきた。

修善寺P169
修善寺は大同二年(八〇七)、弘法大師によって開基されたと伝えられる古刹であった。のちに北条早雲の手によって再興され、延徳元年(一四八九)には曹洞宗に改宗されていた。

第四章寒月夜鐘ヶ淵P215
浅草寺P245
鐘ヶ淵は左手に浅草寺を見ながら、さらに寺島村、隅田村、南千住と上りつめた辺りだ。

静林庵P249
西尾玄楽の隠宅から東側に静林庵という尼寺があったが、どうやらその尼寺の老尼のようだ。

多聞寺P259
三人は毘沙門天多聞寺のかたわらを抜けて東へと、畑の間を向かった。

若宮八幡宮・善福寺P259
若宮八幡宮の別当寺は真言宗にして善福寺と号した。社伝によれば、文治五年(一一五九)七月、源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐せんとして進発した。その途次、この地に立ち寄りて当社に参詣し、武運長久を祈願した来歴も持っていた。
頼朝が奥州征伐を終えて凱旋し、この地に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという。だが、その後、
・・・春草年々に生じ秋の蔦月々に茂り、瑞籬は崩れ神階朽ちて破壊におよびし・・・
状態に陥っていた。

第五章待乳山名残宴P287
増上寺・愛宕権現社P299
一行は空駕籠を従えて日本橋を渡り、東海道を黙々と宇田川町まで歩き、増上寺の北側の塀に沿って、愛宕権現社との間の切通しを抜けた。

天徳寺P299
だが、磐音は遠慮して、道を挟んだ反対側の天徳寺の山門前で待つことにした。

待乳山聖天P309
待乳山は高さ六間ほどの丘だ。
言い伝えによれば自然の地形ではなく、その昔、造成されて、聖天宮が祀られたという。本尊は男女和合歓喜天巾着と、二股大根の紋とか。

慶春寺P329
慶春寺は住職と小僧二人だけの小さな寺であった。
明かりがちらちらとする離れは本堂と庫裏と荒れた墓地に挟まれて建っていた。

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