第一章夏祭深川不動
富岡八幡宮-P9
顔を上げると、富岡八幡宮前で金貸しとやくざを二枚看板にした権造一家の代貸の五郎造と視線が合った。
富岡八幡宮は、永代寺の長盛法印が寛永4年(1627)当時永代島と呼ばれていた現在地に創建した神社。深川の鎮守として崇敬厚い神社。
富岡八幡宮|深川の八幡さま、深川七福神の恵比寿神
成田山新勝寺-P10
深川不動は、元禄十六年(一七〇三)に成田山が永代寺の門前を借りて、不動尊の出開帳をしたときに始まる。以来しばしば、成田山新勝寺をはじめ、出開帳で人を集めていた。
成田山新勝寺は、東国鎮護のため、天慶3年(940年)寛朝大僧正が開山したという真言宗智山派の大本山。関東三十六不動の結願札所。
成田山新勝寺|真言宗智山派大本山、成田市成田にある真言宗智山派の寺院
金竜山浅草寺-P16
障子戸には、金竜山浅草寺御用人黒船勝八とあった。
金竜山浅草寺は、推古天皇時代の創建とされる東京都内最古の寺院。坂東三十三観音の13番札所、江戸三十三箇所観音霊場の1番、東京三十三観音霊場31番札所、浅草七福神の大黒天
浅草寺|聖観音宗総本山、東京都内最古の寺院
神田明神-P48
神田明神まで行かねばならぬ。
神田明神は、天平2年(730)武蔵国豊島郡芝崎村(現千代田区大手町)に創建、延慶2年(1309)には平将門公が合祀され、太田道灌・北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬された神社。元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷座し、江戸総鎮守として崇敬厚い神社。
神田神社|千代田区外神田の神社、江戸総鎮守、神田明神
深川不動-P69
それに磐音の五人は櫓下から永代寺領にある深川不動に向かった。
深川不動堂は、成田山新勝寺の東京別院で、関東三十六不動の第20番霊場。成田山深川不動堂は、元禄16年(1703)に永代寺で行われた成田山新勝寺本不動明王の出開帳に起源を持つといい、並行して成田山新勝寺の江戸における出張所が日本橋坂本町に設けられており、明治維新による永代寺廃寺に伴い、この成田山新勝寺出張所が浅草御蔵前・深川吉祥院への移転を経て、明治2年に深川不動堂となったという。
成田山深川不動堂|江東区富岡にある真言宗智山派の寺院
第二章幽暗大井ヶ原
霊雲院-P84
小名木川に架かる万年橋を渡り、霊雲院の前から清住町へ、さらに仙台堀を渡って深川佐賀町へ抜け、永代橋に出た。
増上寺-P113
三人は京橋から東海道をさらに下った。三縁山増上寺の前を通り過ぎても由蔵の前を通り過ぎても由蔵の足は止まらない。
海晏寺-P114
その由蔵の足の運びが緩やかになったのは、紅葉で有名な海晏寺を過ぎたあたり、江戸府内の外を示す、朱引きの外に出たときだ。
第三章宵待北州吉原
泉養寺-P149
泉養寺の境内ではどうだい。あそこなら静かだぜ
神明社-P150
石の柱には、神明社地別当泉養寺と刻まれてあった。
薬研掘不動-P158
薬研掘不動のかたわらに小粋な水茶屋が何軒か、看板をあげていた。
第四章潜入豊後関前
泰然寺
明るくなってから蟄居閉門中のわが家を訪ねるわけにもいくまい。仁助、泰然寺の和尚に頼んでみようと思う。
第五章恩讎御番ノ辻
宋道院-P282
坂崎磐音は、わが屋敷の裏手にある宋道院の石段の闇に身を潜めていた。
大照院-P285
さらに夜になって、藩主家菩提寺の大照院の宿坊のひとつに移した。